「春寒やまつり開くも花一輪」の批評
こんばんは。
御句、事実を書いているのは好感が持てます。
ただ、
「春が寒くて、まつりを開くも花が一輪だけでしたよ」
という俳句の形をした報告になってしまっておりまして、
見た方も「そうですか。わかりました」としか言いようがない、という句です。
報告文になってしまって、俳句の詩になりにくい、という理由はいくつかありまして、
◆季語を「理由」として使っている
これをすると、俳句が報告・説明になりがちです。
(この形を、俳句ではよく「因果がある」と言います)
御句では「春寒や」⇒「春なのに【寒いから】花が一輪しか咲いていない」と、季語が理由づけになってしまっています。
原因と結果が丁寧に書いてあるので報告の文書としては良いのですが、俳句としては「で?」となりがちです。
◆「~~するも」と、説明しようとしている
御句では「まつり開くも」としていますね。ここに「説明しよう」という作為が明確に入ってしまっているので、説明・報告に見えてしまいがちです。
◆「花一輪」とは何の花?
冒頭に「春寒や」という季語で始まっているため、この下五の「花」は桜とは受け取りにくい形です。「花」=「桜」として使っているならば季重なりですから。
とすると、この「花」はなんだろう?となってしまい、花の種類がわからないので映像がぼやけてしまいます
ちなみに、俳句のテクニックとして、上記の逆をすれば報告文っぽさを回避した俳句にできる、というのが存在します
すなわち
◆季語を理由として使わない
◆報告・説明の文章を避ける
◆映像が思い浮かぶように、ことばを工夫する
今回はこのぐらいでしょうか。他にもテクニックは多数あります。
今回の句では「桜」を季語にした方がいいと思います。「春寒」はどのように使っても、その説明になりますので。
・桜まだ一輪のみの祭かな
これでも少し説明臭いですけれども。
あるいは、どうしても季語「春寒」を使うならば、季語「春寒」をきちんと立てた方がいいと思いますので「桜が一輪しか咲いていない」という説明はせずに、句の受け手に委ねた方がよいと思います。
「さくらまつり」という単語を季語ではないとして使わせていただくとして
・春寒のさくらまつりの寂しさよ
こんな感じでしょうか。
重ねて言いますが、一句の中で「春寒」「桜が一輪しか咲いていない」を両方入れるのは、報告にせずに俳句にするのはかなり難しいと思います。