俳句添削道場(投句と批評)
げばげばさんのランク: 師匠1640段 合計点: 5,038

げばげばさんの俳句添削依頼

最新の投稿順に並んでいます。回答が付いた投稿が先頭に移動します。

夏の暮グレーチングの鈍き錆

回答数 : 10

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計画を総て捨てたる夏旅路

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終日の汗流すタオルはダイソー

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炎天や廃車の砂埃微か

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臥待月モッシュピットの名残あり

回答数 : 7

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げばげばさんの添削

「卒業の後に廃校泣く恩師」の批評

添削した俳句: 卒業の後に廃校泣く恩師

こんばんは。
フィードバックしないと言いながら前言撤回する言葉に信念のないげばが通ります。
批判するなら‥‥の言葉が強くてこうなると誰もコメントに来なくなるのでは、と思いまして、私ごときで良ければと性懲りも無く考えを述べに来てしまいました。今日は喋りたい日なんでしょうね、久々にワーワー喋ってしまっています。

御句。前句より伝えたいものが伝わってきました。
前回の句でも同じですが、やはり気になるのは結果を書いてしまう傾向です。
まず、卒業の後に廃校、という映像ではない状況・コトの説明があること、
そのうえ、
廃校前の卒業だから、恩師が泣いていると、結果まで出してしまうと想像の余地が薄れてしまうこと。

廃校式次に控へて卒業す/藤田美智子
今日限り廃校となる卒業歌/佐藤信子

句材としてはわりとよくあるので、例句はたくさんあるのですが、上の二句は、そこにいる人物がどんな顔をしてるか、などを読み手に全部言わずに想像させてくれるところが佳いなあと思います。そんな想像の余白みたいな部分、省略の文学が俳句の魅力のように思います。
恩師は泣いてるのかなあ、生徒はどんな顔で歌うのだろう。

もし恩師も入れたまま、因果を少し薄れさせたいなら

卒業歌廃校に泣く恩師かな

少し薄れましたがやはりまだ中七に説明が残ります。
卒業という季語のなかに人が内包されている季語だからでしょうか。人は言わなくても卒業という季語の中に、先生や生徒という人物が見えるからでしょうか。もし人を出すなら用務員さんとか、季語の範疇の人から脱けた人が登場するときとかですかね。人でない要素を出したくなります。

卒業歌廃校となる大樹かな
卒業歌廃校となる部室かな

ここまでいくと添削でなく改になるので、あまりやりたくないのですが。因果の結果や景をすべて言わずに、別の要素で想像の余地を補給することを私ならすると思います。大樹を見て作中主体は何を思うのだろう、部室にいて誰が何を思っているのだろう、どんな表情でいるのだろう。想像させたいなあと思います。

今回は私の考えを述べるだけでなく、裏付けや改善案をということで意識はしましたが、もうげばげばは来ていらん、イサクさんの意見だけでヨロシイということであれば退散しますー。イサクさんが意見してくだされば私はまず意見がかぶるであろうので言うこと無くなりますからね。
ではお邪魔しました。

点数: 4

「征く雲の集める星や龍天に」の批評

添削した俳句: 征く雲の集める星や龍天に

こんにちは。
久々にさんざん喋りすぎたようです。ははは。
提案句ありがとうございます。これだ!まちがいない!これでしょ!という句を出そうかと思うてましたが、詩にするには句材が難しくて、あまりいじると改作になるしなあ。これで考えるのを辞めれます。

点数: 0

「それぞれのそれぞれちがう春の風」の批評

添削した俳句: それぞれのそれぞれちがう春の風

こんにちは。
いつも勉強させていただいています。

正直何を使って詠んでもいいし、何で判断してもらってもいいと思っています。いつかは人間の感情を揺り動かす句を判別するAIができたら読んでみたいなあ、とわくわくしたりしますし、AI主宰結社が出てきたりするのかも、と思うたりしますが、やはりまだ技術のことは語れても、人間の心のさざなみまで感じるのはむずかしいのかもなあ、と思うたりしました。

日々季語とぶつかって、句友さんと、自句はどう届いてるか、相手の句はどう届いたかを語り合って、そして俳句というのは磨かれていくのだなあと思うし、俳句は座の文学というだけあり、鑑賞する方がいて、詠んだ自分ですら気づけなかったいろんな物語が生まれて、だからそれを聞けるのを楽しく思うし、読み手が自分の体験や人生に惹きつけて自分のことのように自句を感じてくれたときに、詠み冥利だったなあと感じたりします。
やはりまだ人間と人間による文学なのだなあと感じました。
これはあくまで私見。俳句にもいろんな要素が入ってきておもしろいなあと思います。

めいさん、今はいろいろ悩む時期かもしれません。私もこの道場に来て一年、毎日一句を続けて、ひとりよがりだとか言葉に酔ってるとかボコボコに叩いていただきました。おかげで今俳句というものを少しずつ掴めたか、いや、指先に少し触れたか、ぐらいの感じになってきました。
私が大事にしていたことは、学ぶことを楽しいと感じること(そのために人の意見に耳を傾け、まずは排除せず摂取して消化して自分の栄養になるものは吸収する、自分の考えだけでは先細りします)プチ発見感動を大事に詠みたいことの感動に敏感に生きること(見つけようとするのではなく感じる余裕を持つイメージ)。おもしろくなくなったらもったいないくらい私は俳句は一生を豊かにするものだと思っています。

いろんな場所でワーワーやってますので、なかなか道場にコメント残すことが減りましたが、たまに覗いてます。ぜひ楽しんでくださいね!

点数: 2

「お返事や雑談ここへ願います」の批評

添削した俳句: お返事や雑談ここへ願います

お返事ありがとうございます!よかった、ひとつひとつ丁寧にお返事いただいてありがとうございます。

なるほどそういう考え方があるのかあ、疑問に対する答えになっているかはわかりませんでしたが、どういう意図で詠んだかを教えていただけたので飲み込めました。一点季語がないから川柳になるとは言ってはいません。無季=川柳とは思っていないという意味です。

いろんな考え方があるなあと驚いていますが、一番はAIの存在です。三段切れになってるか、季語として機能してるのか、も教えてくれるのですね。
読んだ人間の心を動かせるか、詩情が読み手の心を波立たせるかまでAIが教えてくれたらいいのですが、やはり俳句は人間の心をもって詠もう、私の詠みたい読みたい俳句はなるほど如何なるものなのだなと再認識できた佳き機会でした。

もうフィードバックに来ることはないかと思います。なぜならひとの意見を求めてらっしゃらないように感じるからです。自分の中で、こういう意図で詠んだという強い芯をお持ちなので、読んだ側がどう感じるかという意見はあまりほしくないのかなあ、と感じました。
詠み手がこういう意図なのだから、読み手のそういう読みの方が間違えてますよ、という目線で意見を受け取ると、みな意見を言わなくなっちゃいますしね。
自分ひとりで詠んでると自分の意図というものに固執してひとりよがりになりがちです。人の心を打つのは理屈じゃないと思うので、どのように読み手に届くかを大事にしたいなあとも感じ直せました。

今回はいろいろ考えられて佳き機会とお返事をありがとうございました。

点数: 5

「お返事や雑談ここへ願います」の批評

添削した俳句: お返事や雑談ここへ願います

こんにちは。
みつかづさん、はじめまして。げばげばと申します。
みなさんの議論興味深く拝見しました。この場は論破する場でもなく意見を交わし合う場所なので、私も自分の考えを話してみたくなりました。この道場はみなさんの意見に耳を傾けて、なるほどそういう考えもあるのだなあ、自分はどう考えるだろう、と自省する場なのかもしれませんね、私はそういうこの道場が大好きです。

あくまでげば個人の意見、軽く論破されるかもしれませんが。

さて、御句を拝見しました。卒業が季語であるかどうかという点での議論もとても興味深かったです。季語は季節性が必要とか先人例句の蓄積の本意にかなうべきとか、いろいろな意見があるとも思います。なるほど納得です。
その一方で、これは季語だとよまれるなら季語で、無季ととられるなら無季でもいいじゃないか、と私は思います。
もし読む人が無季と捉えても、読む側の鑑賞に委ねられるので、それでいいよな、とも思います。

無季だろうが、圧倒的に読む者に伝わる何か、それが詩性なり詩情なり俳味なり、そういうものが伝わるならいいじゃないかとも思います。
それって何?と言われると難しいですが、
「読む人の心の平地に波を呼び起こす」もの、というイメージかもしれません。
感動とひとことに言うとあれですが、ざわりと心が動くから俳句を読むのは楽しいと思ったりします。小さな小さな発見や小さな波でいい、そしてそういう俳句を読みたいし詠みたいと思います。

長々と前置き失礼しました。今回は季語であるか否かというより、そういう点で少しひかかりました。事実としておむつがとれてパンツになったことをこえて、読み手にどんな波を起こしたいんだろう、詠み手は何を思ったんだろう。

悩んだ理由はいくつかあります。
1 おむつが取れたので、パンツになる、という因果を感じて詩を消しがちなこと(因果があっても名句はありますね)
おむつの卒業、に対して、パンツと結果を出す必要はあったのでしょうか。あえて結果が必要なケースだったでしょうか。

2 陽気と夜が同居して、時間の軸や経過が気になり読みが止まったこと
夜なのでしょうか。昼に陽気が増したのでしょうか。

3 三段切れの名句はありますが、三段切れではない、(し)を補えばつながる、という、この(し)こそが、因果を生んでる、散文感を生んでるのではないか。

4じゃあ読みの頼りにしたいと思った季語が、季語として詠んでるのか否かで迷いが出ること(結果無季として読んでしまいました、有季として詠んでいたなら読み取れず力不足でした)

5何より、詠み手にどんな心の波が生じて、読み手にどんな波を起こしたかったのか、が私の鑑賞不足か届かなかったこと

読む側の力も必要なので、鑑賞の力が足りないと言われたらそこまでなのですが。伝わるものがあれば、広い意味でおもしろければ何をやってもいいやんと私は思うのですが、5が一番気になる点でした。

いろいろ書きましたが、
わたしの考えなど俳句歴三年未満のぺーぺー、そんな私の私見で話していることなので、何言ってんだコイツとならずに、ああそんな考えもあるのね、と流してもらえたら幸いです。長文失礼いたしました。

点数: 5

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